Fleche2017 前日編

スタート前日。新幹線と在来線を乗り継ぎ、伊勢入り。


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天気は生憎の雨であり、翌日の予報も雨。自転車には前後の泥除け、雨具も持っている中で一番強力なものを持参した。


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伊勢での観光予定は特に立てていなかったが、いつも通り現地の老舗自転車店に行ってみることに。立ち寄った「ケーケー山本自転車店」は創業108年を迎える国内屈指の老舗。

以前のランドヌ東京のブルベ「伊勢1000」の際に参加者が立ち寄ったとのことで、店員さんもブルベをご存じであった。話題は自然に、明日出発のフレッシュに。

 「明日は伊勢湾フェリーに乗って伊良湖に行く予定なんです。」

それを聞いた店員さんの顔が曇る。どういうことだろう。

 「うーん、今日のこの天気だと、もしかしたら欠航かもしれませんよ。
  濃霧や風だとフェリーが出ないこともあるんです。」

  
なんと、そんな可能性が。さすがに欠航までは考えていなかった。そうなった場合、ルール上はどうなるのだろう。緊急回避で、陸路を取って名古屋周り? しかし、それでは距離が……。まぁ、地元のライフラインだろうし、そうそう簡単には欠航には至らないだろう。

この時点では、割と楽天的に捉えていたのだが、いささか心の隅に引っかかりも残っていたのだった。

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夜。ホテルでチーム会議を行った。今回は全員が同じホテルを予約していたので、ロビーでの会議となった。

「雨天であるので路面状況に気を付ける」と言った事や、道中寄る予定の場所などを確認する。雨ではあるが、皆当然のように走る気である。さすが鍛えられたランドヌール。踏んだ場数が違う。

そろそろ会議もお開きとなった頃、昼間に聞いたフェリーの欠航のことが頭をよぎった。

 「……多分大丈夫だと思うんですけど、一応。
  地元の自転車屋さんが"フェリー欠航もあるかも"と言ってました。
  一応、想定しておいてください。」

  
そして、その嫌な予感は現実のものになるのであった。

(つづく)
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Fleche2017 準備編

「AR日本橋」主催のチームブルベ、「フレッシュ日本橋 2017」に参加してきた。

2016年は参加していないので、2年ぶりの参加となる。AR日本橋主催としては過去最高の43チームが参加し、30チームが完走。天候には恵まれなかったが、非常に盛り上がるフレッシュとなった。

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2015年に「ロードバイク以外で大阪→東京フレッシュ」と言う、ある意味極北なことをやってしまい、燃え尽きてしまった感がある。それで、昨年はフレッシュには参加しなかった。

しかし、2017年1月。フレッシュ参加にお誘いを頂いた。

声を掛けてくれたのは、宮城1000で一緒に走ったNAOさん。BAJ2400(日本縦断ブルベ)や、PBPもクリアしている猛者だ。昨年もフレッシュに参加しているが、残念ながら証跡の不備によって認定されず。今年こそ初のフレッシュ認定取得を狙っているらしい。

フレッシュは辛いことも多いが、非常に面白いブルベ。久々に参加してみようと思い立ち、承諾の返事をしたのだった。

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フレッシュはチームで走るブルベである。最低3人、最高5人のメンバーを揃えなければならない。

言いだしっぺのNAOさんが私以外のメンバーにも声を掛けており、以下の4人でチームを結成することになった。

 ・NAOさん (@i7015)
  →BAJ2400、PBP2015完走。今回のリーダー。
 ・はるさん (@KSR1450)
  →台湾やタイなど海外でのブルベ経験あり。台湾版キャノボ「一日双塔」を達成。
 ・コトノハさん (@Nd2CuO4)
  →PBP2015完走。東京大阪キャノボを達成している。
 ・baru (@barubaru24)
  →フレッシュは5回目。今回はルート設計担当。
  
今回のメンバーは、私を除いて国内フレッシュの完走経験が無い。NAOさん&はるさんは昨年同じチームで最後まで走ったが、前述の証跡の不備によって認定されなかった。今回のフレッシュが認定となれば、NAOさんとコトノハさんは「ランドヌール5000(※)」の要件を満たすことになる。何事も無く完走し、彼らが認定を得られるようにサポートをしようと思ったのだった。


※ランドヌール5000

ブルベの主催団体ACPが認定する称号で、4年間の間に所定の条件を満たすと授与される。PBPやフレッシュを完走している必要がある。



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フレッシュのユニークな点は、チームごとにルートを決められる点である。

ルート担当は私。前回まではチャレンジングなコースを設定してきたが、今回はなるべく認定が取りやすく、観光名所を通る楽しいルート設計を心がけた。




そして出来上がったルートが「伊勢帰り」

 ・スタート前日は伊勢を観光。
 ・鳥羽から伊勢湾フェリーに乗船し、優雅なクルージング。
 ・伊良湖岬では、名物の巨大アサリを食べる。
 ・御前崎では、「地球が丸く見えるん台」で海を眺める。
 ・焼津では、新鮮な海の幸を食べる。
 ・新トンネルが開通したばかりの大崩海岸を通り、海の上を通る橋の風景を堪能する。
 
その後はお約束の箱根越えからのキャノボルートだが、静岡県内はなるべく観光要素を盛り込んだ。距離は370㎞と、ほぼ最低限の距離。大きな峠も箱根のみ。参加メンバーの脚力を考えると、かなりリスクの低いルートと言える。

ルートの審査も問題なく通り、あとは開催日を待つのみとなった。


(つづく)
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耐久ランのレコードブレイカー・井手一仁氏の記録

これまで不定期に掲載してきた、「東京大阪タイムトライアル(以下、東京大阪TT)の歴史」のコラム記事。第四回となります。

今回取り上げるのは、大阪の井手一仁さん。1980年代前半にブームだった「耐久ラン」のスペシャリストです。「大阪→東京」では、記録が残る限りで最速となる「19時間45分」という記録を持っておられます。その他にも、当時の耐久ランの記録を次々に塗り替えられました。

最速の耐久サイクリストによる数々の記録更新の歴史を紹介していきます。



■導入


このブログにも記事がありますが、2012年に私は「TOT(東京~大阪~東京)」というイベントを開催しました。レポート記事はサイクルスポーツ誌に寄稿(2013年3月号)し、それなりに反響も頂きました。そして、その反響の中にこんな声があったのです。

 「確か30年くらい前にも、同じようなレポートがサイスポに載っていたような。
  方向は逆だけど、48時間以内に完走していたはず。」

  
驚きました。「東京大阪」の片道は昔から定番ルートであることは知っていましたが、往復をやるような酔狂な人が過去に居たとは。

調べてみると、その人の名前は「井手一仁」さんだということが分かりました。現在は、大阪府貝塚市で「サイクルジャパン」という出張自転車修理店を営まれています。

サイクルジャパンのホームページには、井手さんのプロフィールが掲載されているんですが、これが物凄い。

 ・日本縦断(1981年5月): 2683km/127時間36分 (現在も破られていない)
 ・大阪→東京(1982年5月): 558km/19時間59分 (橋本さんの記録を更新)
 ・大阪→東京(1982年9月): 552km/19時間45分 (自己記録を更新)
 ・大阪→東京→大阪(1982年10月): 1127km/47時間56分 (初の往復記録)
 ・アメリカ大陸横断: 5500km/21日
 
目黒にある自転車文化センターで当時のサイスポを閲覧したところ、「日本縦断」と「大阪→東京→大阪」のレポートを発見。非常に力強く生々しいレポートでしたが、やはりご本人から当時の話を聞いてみたいと思うようになりました。記事になっていなかった「大阪→東京」の内容も気になりましたので。

サイスポのレポートの最後には井手さんの言葉として、

  「全国のサイクリストと話がしたい!
   気軽に電話をください。」

   
と、ご自宅の電話番号が書かれていました。番号は、現在の出張自転車修理の依頼電話番号と同じ。さすがに30年も前の記事を真に受けて電話するのも失礼かなぁとは思いましたが、他に連絡先も分からないので、勇気を出して電話をしてみました。物凄く緊張して、久々に電話を持つ手が震えました……。

井手さんは現在でも、サイクリストと話すのは歓迎とのことで、お話をさせて頂けることになりました。ここから先の記事は、井手さんへのインタビューと、サイクルスポーツ1982年7月号、11月号、12月号の記事を元に構成したものです。



■井手さんのプロフィール


1960年生まれ。166cm/67-70kg(当時)。

小学校5年生頃にランドナーを買ってもらったのがスポーツ自転車との出会い。

自転車漫画「サイクル野郎」の影響で四国一周などのツーリングをする一方、将来の夢は競輪選手。近場の岸和田競輪場で練習を積み、自転車部の強い高校に進学したそうです。トラック競技でインターハイに出場。

夢だった競輪選手になるべく、伊豆・修善寺の競輪学校を受験したものの、二年連続で不合格。トラック競技でもインターハイに出る脚の持ち主でしたが、ここで脚質の差という壁に弾き返されてしまったのです。ご本人いわく、「スプリンターじゃなかったからね」とのこと。

そこで、井手さんは一念発起。得意な長距離走で日本一になることを決意したそうです。目標は、「全ての耐久ランの記録を塗り替える」ことでした。

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大阪産業大学に入学後、前述のように「日本縦断」「大阪→東京」「大阪→東京→大阪」と、次々に従来の記録を更新。全てのチャレンジは、雑誌やテレビ局に連絡を入れていたそうです(退路を断つため)。ご自宅にはその時の映像や、雑誌の切り抜きが残されています。日本縦断には、あの「シマノ」が協賛していたようですが、こうしたスポンサー探しもご自分でやっていたそうです。

現在でも大好きな自転車に貢献すべく、本業の出張自転車修理の傍ら、自転車店の開業支援講座も開かれています。



■大阪→東京(1回目)


大阪→東京への1回目の挑戦は、1982年のゴールデンウィーク。目標は、当時の区間最速記録である橋本さんの記録(20時間50分)を抜くこと。日テレの情報番組「ルックルックこんにちは」に取材され、実際に番組内でも井手さんのことが取り上げられました。

実は挑戦の直前に全編の試走を実施し(井手さん「24時間は掛からなかった」)、万端の準備で臨んだようです。この時代の他の方と同様、補給と修理道具を積んだサポートカーが帯同しての挑戦となります。


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都市部の渋滞時間を計算し、スタートは5月2日の14時。ルートは、「日本橋→日本橋」。井手さんとしては、

 「東海道五十三次の始まりは日本橋(にほんばし)なので、
 大阪の日本橋(にっぽんばし)をスタートにしようと思った」

 
というのがこのルートを選んだ理由。日本橋のすぐ近くにある通天閣をスタート地点に指定し、多くのギャラリーに見送られてスタートを切りました。映像を見せてもらいましたが、100人は居たようです。「通天閣に居る人はノリがええからね」とは、井手さんの談。知り合いじゃない人も多かったそうです。

道は基本的に国道1号線準拠だったそうで、京都回りで鈴鹿峠を突破。ここでは雨に降られたものの快走を続け、特にトラブルも無く箱根もクリア(こちらも旧道ではなく1号線で湯本に降りた)。トイレは三島で1回行ったのみ。休憩は5分間を10回くらい取ったとのことです。


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そして、19時間59分48秒という驚異的なタイムで日本橋の道路元標前にゴール。見事、それまでの最速記録であった橋本さんの記録の更新に成功しました。

ちなみに、ゴール時の映像にカメラマンからダメ出しを貰ったらしく、この映像はテイク2とのことでした。



■大阪→東京(2回目)


大阪→東京の再チャレンジは、1982年の9月25日。位置付けとしては、この後に行う予定だった「大阪→東京→大阪」のための腕試し。ですが、同年7月に更新された大塚さんの記録(19時間45分/サイスポでは19時間50分の表記)への意識もあったものと思われます。

今度のルートは、「梅田→日本橋」。今度は当時の「正式」ルートとも言える、国道1号線の端から端まで走るルートを選択。「先輩と条件を合わせるため」とのことでした。

今回も大きなトラブルは無く順調に走行。自己記録を14分更新する、19時間45分でゴール。これは、方向が逆である大塚さんと同タイムの記録となります。大阪→東京に限れば、恐らく2016年現在も未だに破られていない(※)大記録です。

※ 補足
私の知る限りでは、井手さん以後の大阪→東京では、Hideさん(@transamhide)が2015年に出した20時間48分が最速記録。
「東京→大阪」であれば、1990年代にマイク・シュルツという人が19時間28分で走ったという情報もあるが、詳細は不明。


■大阪→東京→大阪


2回目の大阪→東京で手ごたえをつかんだ井手さん。次なる目標は「大阪東京往復を36時間」。これまでは既存の記録に挑む形でしたが、往復ルートをやったのは井手さんが初めてのはずです。

 「片道19時間代で行けたからね。
 更に頑張れば片道18時間で行ける。往復でその2倍。
 単純計算ですわ。」

  
と、井手さんは振り返っていました。えっと、人間は疲れるもののはずなんですが……!

この挑戦に備え、大阪→東京の他に、大阪→名古屋→大阪(500km)を19時間26分で走りきるなど、相当入念にトレーニングを積んでの挑戦となりました。

10月10日 10時10分に、梅田をスタート。帯同したのはサイスポ編集部と、自転車部の先生だそうです。

予定通りにスタートを切ったものの、頑張りすぎ&雨による冷えで、鈴鹿峠で膝痛が発生。井手さんは「少しこの時はオーバーワークだったかもしれない。2週間前に19時間45分で大阪→東京を走ったばかりだったし」と振り返ります。


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この時点で距離はまだ100㎞。1000㎞を超える全体行程からすれば、まだまだ序盤です。スタッフはリタイヤを薦めますが、後には引けない井手さんは続行を宣言します(写真はその時のもの)。

普通、膝がやられてしまうとペースはガクンと落ちるものですが、そこはさすが耐久ランのスペシャリスト。なんと、20時間51分で東京・日本橋に辿りつきます。ご本人からすればベストから1時間落ちの遅いタイムになりますが、歴代のチャレンジでも10位以内に入るタイムでしょう。恐ろしい。

日本橋は雨。サポートカーに乗り込み、マッサージを受けて30分の仮眠。レポートでは、「眠った次の瞬間には目が覚めた」と井手さんは語っています。そういえば私もTOTの折り返し点で寝ましたが、ここから走り出すのはかなり辛いのです。ここまで走ってきた距離をまた走ることになるわけで。そのことを話した所、

 「変な所で共感しあうよね、耐久サイクリストは。
 ちょっとあの時の気分を思い出してきた。」

と井手さんは笑っていました。

折り返し点に到着から1時間24分。井手さんは復路のスタートを切ります。

一度は持ち直したかに見えたわけですが、やはり膝の痛みを庇った大小が体の節々に影響していたようで、今度は腰に痛みが。保土ヶ谷で57分、藤枝で17分間の大休憩を取って回復に努めます。

名古屋を通過した所で、今度は睡魔が。さすがにここまで30分しか眠っていないわけで、耐えられるはずもありません。ここで20分間の仮眠を取りました。

体が冷えてしまったため、長袖ジャージを着込んで走り出す井手さん。しかし、暑くなってきてジャージを脱いだ所で、袖が前輪に絡んで落車。スポークが歪んだのでホイールは交換となったものの、大きな怪我もなし。この出来事で目も覚めたとのこと。

ここからは気合で走りきり、スタートから約2日後の10月12日 10時06分に梅田にゴール! タイムは47時間56分でした。本人の目標である36時間には及ばなかったものの、この記録は未だに破られていないはずです。

そして、痛みを押して走ったため、「ゴール後一週間くらいはまともに動けなかった」と仰っていました。



■自転車

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下森製作所の「プロトン」で作ってもらったオーダーフレームを使用。この工房から独立したのが、「エクタープロトン」を手掛ける橋口製作所です。

車重は8~9kg(サイスポによれば8.0kg)。パーツはカンパニョーロのスーパーレコード中心で、スプロケットはサンツアーを入れていたそうです。ホイールは手組のチューブラーで、スポーク数は前28本・後32本。ホイールは基本的に全て自分で組んでいるとのこと。サドルはチネリ。

変速は、前2速の後7速。ギヤは前52-42T、後11-18T。日本縦断も全てこのギヤ比だったそうです。



■装備

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上半身は、ツルっとした質感でピッタリとしたジャージ。現在のエアロスーツのようにバタつかないジャージを着ていたようです。グローブは無し。バーテープは布製のものを使用。

前後のライトが一体となった、アームバンド型のライトを愛用していたとのこと。その他にも、映像の中では反射タスキをベスト風に身体に巻き付けていたシーンもありました。

この頃には既にパッド入りのレーパンも一般化しており、井手さんも使っていたとのことです。



■練習法


基本的には、実走トレーニング。月の走行距離は2000kmほど。

家のある貝塚市から、海沿いに和歌山の南部まで行き、帰りは内陸の山を通って帰ってくる300㎞が定番の練習コース。通常、12時間で走り切っていたそうです。

特徴的な練習としては、「夜中でも眠くならずに走る練習」をしていたそうです。あえて夕方の18時から走りだし、翌朝6時まで走るというもの。他にも、ローラー台で1000㎞を漕ぐという精神修行のようなこともされていたとか……。



■その他


実は井手さん、かなり石橋を叩いて渡るタイプだったようで、大きなチャレンジの前には必ず試走をしています。本番をスムーズに走るにあたって試走はとても重要だと私も考えているので、ここには非常に共感しました。

日本縦断も前編下見を実施。187時間で完走したとのことです。これでも十分速いのですが、本番は127時間で完走というのだから物凄い。

大阪→東京→大阪を終了後、井手さんの視線は海外へ。ニューヨーク・サンタモニカ間往復(5000km)、アメリカ大陸横断(5500km)や、アフリカ・サハラ砂漠横断(2700km)など、精力的に挑戦を行ったそうです。



■まとめ

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今回は井手さんのお宅でお話を伺いました。1時間の予定でしたが、話は盛り上がり、気づけば2時間が経過。当時のビデオや写真を交えてお話を聞くことが出来たのは、大変貴重な経験でした。やはりご本人から、その時の想いを直接聞くというのは特別なものですね。

ちょっと驚いたのは、1982年の映像なのに、やたら鮮明であること。テレビで見る昔の番組よりも綺麗なのではないか? おかげで、挑戦の息遣いが直に伝わってくるようでした。

後になって気づいたのですが、井手さんが大阪→東京→大阪に挑んだのは、1982年の体育の日。私が東京→大阪→東京に挑んだのも、2012年の体育の日。ちょうど30年後の同じ日だったわけです。気候的にもちょうど良いし、「体育の日に1000km以上距離を走るのも良いだろう」ということから日程を決めたのですが、耐久サイクリストの思考回路は似通ってくるのかもしれません。

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そして、この井手さんのチャレンジの後、「東京大阪TT」は一旦下火となります。恐らく、記録が行くところまで行ってしまって、誰も挑む気にならなかったのでしょう。90年台前半に戸田真人という、これまた凄い耐久サイクリストが出現しましたが、井手さんの記録を破るには至っていません。

「東京大阪TT」が再び日の目を見るのは、24年後の2006年。「キャノンボール」の名前が与えられ、再びサイクリストはこのコースを思い出すことになったのでした。


(終)
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歴代最速?東京→大阪、19時間45分の記録を追う

1973年に、橋本治さんが建てた「東京→大阪タイムトライアル」の記録、20時間50分。それから9年が経過した1982年、この記録を更新する人が現れます。

大塚和平さん、当時32歳。67歳となった現在でも精力的にホビーレースに出場するお方ですが、当時はフルタイムワーカーながら、プロ選手と鎬を削る日本最強クラスのレーサーでした。

新聞やテレビにも取り上げられたチャレンジについて、ご本人にお話を聞いてきました。


■導入


「東京~大阪タイムトライアル」の歴史を振り返る記事を、これまで2回書いてきました。1つ目の記事は、初めて24時間を切った藤田さんに。2つ目の記事は、藤田さんの記録を塗り替えた橋本さんのブレーンであった植原さんにインタビューしてきました。今回は、更にその記録を塗り替えた大塚さんのエピソードについて掘り下げていきます。

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お話を聞くにあたって、大塚さんの所属するチームの掲示板に「お話を聞かせてください」と書き込ませて頂いたのですが、それに対するお返事は「とりあえずチームの朝練に参加してみてください」とのことでした。私としては喫茶店あたりでゆっくり話を聞く予定だったのですが、60㎞のレースペースの練習に参加。練習後の時間にお話を聞くことが出来ました。

本記事は、大塚さんご本人の話と、2012年にサイクルスポーツ誌に連載されたコラム「100歳まで走る」(著者は大塚さん)の内容を元に纏めています。



■挑戦動機


1980年頃のサイクルスポーツ誌に、「大阪→東京」を19時間59分で走った大学生の記事が載っており、それに触発されて挑戦を決意したそうです。この大学生は、井手一仁さんと言って、後に日本縦断(2683km)を127時間36分で走破するスーパーロングライダーです。ちなみに井手さんのルートは「日本橋→日本橋」。大阪の「にっぽんばし」から東京の「にほんばし」を目指すルートだったようです。

一方、大塚さんは当時教師をしながら実業団レースに参加。「東京→大阪」の挑戦前年である1981年の全日本実業団では4位を記録。1-3位は、高橋松吉・紙谷明・三浦恭資という、宮田工業の強豪。この人たちを向こうに回しての4位ということで、当時日本でも最強クラスの脚を持っていたと言えるでしょう。

大塚さんは「東京→大阪」の方向で挑戦することを決定。井手さんの挑戦は「大阪→東京」なので逆方向となりますが、記録を塗り替えることを目標としたそうです。恐らくこの時点で「東京→大阪」の最速記録は、以下の記事でも取り上げた橋本治さんの20時間50分だったはず。大塚さんもこの記録は知っていたようです。

 東京大阪タイムトライアル、レコード更新を影で支えた参謀
 http://cannonball24.blog89.fc2.com/blog-entry-290.html



■ルート&計画


当時中学校教師だった大塚さんは、長期休みが取れる夏休み期間の挑戦を決定。梅雨明けを待って、7月末に挑戦することになりました。相当暑いことが推測されますが、大塚さんは問題が無いと判断。普段からレースでもボトル半分の水があれば十分らしく、暑さには強い体質のようです。

スタートは東京駅、ゴールは大阪駅。これまで記録を作った藤田さん・橋本さんは「皇居前→梅田新道」という同じコースを取っていましたが、大塚さんは若干違うコース取りをしたようです。

スタート時間は午前0時に設定。これは、ゴール時刻がそのまま挑戦の所要時間になり、計算がしやすいのが理由だったそうです。実際には、待ち合わせしていたテレビ局の車やサポートカーが来ず、少々迷った末に0時ちょうどから30秒程度遅れて出発したとのことでした。

基本的には、「国道1号線を辿ればどうにかなるだろう」ということで、ルートの予習は一切しなかったとのこと。戦略は「道路の青看板を見る」だけ。



■挑戦結果


1982年7月31日の午前0時00分(30秒程度経過)から挑戦。スタートは、東京駅の丸の内口。ルートは国道1号線準拠です。サポートカーに補給と予備機材を積んでの挑戦でした。この頃になると既にコンビニも増えてきていましたが、基本的にはサポートカー頼りだったようです。

 走行距離: 560km
 タイム: 19時間45分
 平均時速: 28.2km/h

ゴールの大阪駅には、19時45分を数十秒過ぎたあたりで到着。スタートも遅れたので、19時間45分が最終結果。テレビ番組によると、休憩時間は28分(ご本人のレポートによるお40分)。これは多分、信号停止は含まず、意図的に休憩した時間だと思います。

基本的には天気は良かったものの、滋賀~京都の区間では雨。風向きは悪くなく、名古屋~四日市区間のみが向かい風だったとのことでした。確かにあそこは風向きが他とちょっと違います。

京都~大阪区間では、この挑戦のライバルとも言える「大阪→東京」の記録保持者・井手さんが応援に駆け付けたそうです(大塚さん曰く「新聞に予告が取り上げられたので、それを見たのではないか?」)。車からドリンクを貰ったと仰っていました。挑戦者同士の交錯、ドラマティックなエピソードです。

ミスコースは、聞く限りでは以下の3回。

 ・横浜で横浜新道に入りそうになり、その後に国道16号線方面へミスコース
 ・元箱根でショートカット(多分、畑宿入口から芦ノ湖)をしようとして失敗
 ・静岡のバイパスに入ってしまい、途中で引き返す



↑横浜周辺のミスコースの予測としてはこのような感じ。立町交差点で左に降りずに国道1号線をそのまま直進してしまうと、横浜新道方面に行ってしまうのです。6kmほどロスしていたことになります。

その他にも京都市内が混雑だったので道を変えたりと、色々とトラブルがあったようです。ルート研究をしなかったことには後悔されているようで、「ロスが無ければ19時間は切れていたかもしれない」と仰っていました。

ルート研究を十分に行い、完璧に走った橋本さんの記録(20時間50分)を、ミスコースをしながら1時間以上上回っているあたり、当時の大塚さんは異常な速さだったと言えるでしょう。



■自転車


フレームは、手組の雄・RAVANELLOのスチールフレーム。コンポーネントは、SHIMANO DURA-ACE。1982年と言えば、エアロに振ったDURA-ACE AXが発売された年ですが、恐らく使用されたのはそれ以前のDURA-ACE EXだったと思われます。当時のDURAは7速です。

ホイールは、当時36Hが主流だったとのことですが、軽量化のために32Hを選択。

ペダルは、まだビンディングは無かったのでレーサーシューズにクリップ固定だったようです。



■装備


頭にはカスク。レーパンには既にパッドが付いていたそうです。ちょうど大塚さんに話を聞いた時、練習に参加されていたメンバーの中に「ロードバイク進化論」の著者・仲沢隆さんがいたので話を聞きましたが、1982年は、ちょうどパッド付のレーパンが出てきた頃だと仰っていました。

ロードバイク進化論」によると、合成皮革のパッドは1983年にパールイズミが出したのが最初らしいので、それ以前だとセーム皮のパッドということになるはずです。

他の人と違う戦略として、「シューズを2足用意した」とのことでした。当時は靴擦れをよく起こしていたため、サポートカーに予備シューズを用意。痛みが出る前に浜松で一度シューズを履きかえて、最後までノートラブルだったとのこと。



■その他


この挑戦は朝日新聞にも予告が取り上げられ、それを見たテレビ東京の「サイクルにっぽん」という番組が取材に同行したそうです。ただ、待ち合わせ場所の連絡に行き違いがあり、スタート地点では合流できず。ゴール時も、大阪市街地の渋滞で取材車は大塚さんのゴールには間に合わず。

結局、取材車が大阪駅に着いた段階で「今着いた」感じでゴールシーンを撮り直し。スタートシーンは、後日東京駅周辺で改めて撮り直したそうです。34年経って明かされる、テレビ的エピソードでした。

また、大塚さんはこの翌年に「東京→青森」にも挑戦。30時間29分という驚異的なタイムで完走されています。こちらの記録は未だ破られたという話を聞きません。



■まとめ


「圧倒的な走力を持つ人が走ると、ミスコースをしても早い」という事実を思い知らされる内容でした。多くの人にとっては、全てが上手く行っても24時間を切るのも難関だというのに、これだけ多くのトラブルがあっても20時間を切っているというのは驚異的と言う他ありません。

気になったのは、インタビューの終わり際に大塚さんが言っていた一言。

 「自分の記録を塗り替えた人がいたと聞いている。
  群馬の人だったと思うが……」

  
私は(すくなくとも日本人では)、歴代最速は大塚さんの記録だと思っていました。このシリーズも最後かと思っていたのですが、どうやらもう少し続ける必要がありそうです。

(終)
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東京大阪タイムトライアル、レコード更新を影で支えた参謀

1970年に藤田照夫さんが立てた「東京→大阪」の走破記録・23時間07分。本記事では、その記録の更新に挑んだ方について述べます。名前は橋本治。その挑戦の前年に国体ロード王者となった、当時のアマ最強選手です。

記録の更新のため、どんな戦略が取られたのか。そしてどんな自転車で走ったのか。1973年に行われた、タイムトライアルの詳細を追いました。


■導入


以下の記事で、初の「東京大阪タイムトライアル」で24時間を切った人(藤田さん)について書きました。

 史上初めて「東京~大阪」を24時間以内に走った人
 http://cannonball24.blog89.fc2.com/blog-entry-289.html
 
この記事を書いた後、次に気になったのは、この藤田さんの記録を破った人の存在。これまたcannonball!!wikiによれば、3年後の1973年に橋本さんという人によって破られています。記録は一気に2時間以上更新され、20時間50分

恐らく、当時の実業団でも最強クラスであったであろう藤田さん。機材も3年では大して進化はしていないはず。にもかかわらず2時間以上も記録を更新した橋本さんとは何者なのか?俄然、興味が湧いてきました。当時、この手の挑戦をすると雑誌に取材されることが多かったようなので、どこかの雑誌にレポートの掲載があるはず。

調べる先はもちろん、自転車文化センター。ニューサイクリングの目次データベースから、1973年の11号に掲載があることを確かめ、受付の方に書庫から持ってきて頂きました。

ページをめくると、「東京-大阪タイムトライアル20時間50分」という見出しの書かれた記事が。8ページに渡る大特集です。記事の著者は、取材に同行した編集部の方(藤田さんの挑戦時にも伴走車に乗っていたらしい)。ただし、走者である橋本さんのレポートも2ページに渡って掲載されていました。最も驚いたのは、この橋本さんは1972年に行われた鹿児島国体のロード競技の優勝者であったこと。しかも、独走を得意とし、150km中50kmを逃げて勝ったそうです。本物のルーラーですね。

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このご本人によるレポートで、一点気になった文章がありました。それは、

 「とにかく自分は、走者としての責任を果たすだけで良く、
  他のことは一切考えなかった。
  実際に準備の段階ではほとんど何も行わず、食料の好みや、
  使用タイヤ、それと出発時刻についての希望を言ったくらいであった。」

  
というもの。事前の作戦と、挑戦中のサポートは全て「港サイクリングクラブ」がやってくれたとのこと。確かに記事を読むと、この橋本さんは当時鹿児島在住で、わざわざこの挑戦のために東京まで移動したそうです。つまり、東京-大阪間に土地勘は無かったということになります。しかし、レポートには「道に迷った」という記述は一切ありません。

東京-大阪間のルートは難解です。本ブログでも攻略法を解説していますが、国道1号線を何も考えずに走ることは不可能。突如出現するバイパスや高架によって、自転車は迂回を余儀なくされるのです。私も初の「大阪→東京」挑戦時には予習していたにもかかわらず何回も迷いましたし、先述の藤田さんもバイパス回避にはかなり苦労されたと仰っていました。

それだけ一筋縄では行かない「東京-大阪」のルート。それなのに、橋本さんは「他のことは一切考えなかった」と書いています。これはバックアップを行った「港サイクリングクラブ」が鍵を握っているに違いありません。

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この「港サイクリングクラブ」という文字を見て思い出したことがありました。

シクロサロン植原

以前、東京の三田にあるクラブモデル(イギリス発のスポーツ自転車)の専門店「シクロサロン植原」に伺った時のことです。店の扉が開いていたので店に入ったものの、店主さんの姿は無し。「すみません」と声を掛けても、誰も出てこない。店内を見回すと、入り口のドアの上に

  「東京-大阪タイムトライアル ◯◯◯君」
  
と書かれた白黒の写真が貼られていました。その時は結局店主さんには会えず店を後にしたのですが……確かこの時に見た名前が、「橋本治」だったはず。

調べてみると、「港サイクリングクラブ」の本拠地はその「シクロサロン植原」。きっと、この店の店主さんならば橋本さんの挑戦についてなにか知っているはず。そう思い、三田へと向かいました。

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二度目の「シクロサロン植原」。やはり今回も店主さんはおらず、声を掛けても誰も出てこない。諦めて帰ろうとしたその時……店の奥から人影が。店主にして、港サイクリングクラブの会長である植原郭(うえはら かく)さん、その人でした。

入り口の上に飾られた写真を指差し、「少しこの写真について聞かせて頂いても宜しいですか?」と聞くと快諾を頂きました。

 「橋本君のトライアルね。あれの計画を立てたのは私ですよ。
  伴走車の助手席から指示も出してました。」

 
そう、記事に書かれていた「監督」こそ、この植原さんだったのでした。ここから先の記事は、シクロサロン植原にて店主・植原さんから聞いた話と、ニューサイクリング1973年11号から構成したものです。


■橋本さん(走者)のプロフィール


1948年生まれ。前の記事で書いた藤田さんと同い年です。

元々東京在住で港サイクリングクラブに所属していたものの、就職で九州へ。そこでロード競技と出会い、メキメキと頭角を現したそうです。植原さんが練習法についてアドバイスを求められた際に半ば冗談で、

 「とにかく雨でも風でも毎日100km走れ」
 
と言った所、本当に毎日そのメニューをこなしていた真面目な選手だったそうです。

1972年の鹿児島国体ロードでは、50kmを逃げ切って優勝。脂の乗り切った時期にこの挑戦が行われたことが分かります。

現在は東京在住で、今でも港サイクリングクラブのイベントには顔を出されるそうです。5年毎に記念行事として行っている「東京→直江津」ランでは、56歳にして10時間20分という記録だったとか。毎回30分ずつ遅くなっているそうですが、未だ十分健脚でいらっしゃるようですね。


■植原さん(監督)のプロフィール


1940年生まれ。法政大学を卒業後、丸石自転車に勤務。数年で退職して「シクロサロン」を開店したものの、丸石自転車には嘱託にて在籍。あの「丸石エンペラー」の設計を手がけたお方。

今回取り上げた挑戦で使用された自転車も、植原さんの店のオーダー車だったそうです。

元々、「山王スポーツ」の店主が始めた「港サイクリングクラブ」。それを譲り受ける形で、現在は植原さんがクラブの会長を務めています。


■挑戦動機


ニューサイクリング掲載の橋本さんご本人のレポートによれば、

 「クラブの集まりでお喋りをしている時に何となく
  "東京→大阪を走りたいですね"と先輩に言った所、
  "よし、やろう"と言われ、自分でも本気でやる気になった。」

  
と記載があります。当然意識したのは、1970年の藤田さんによる東京→大阪タイムトライアルの23時間07分という記録。

作戦を立てた植原さんはこんな風に仰っていました。

 「照夫(藤田さん)は、私の後輩なんですよ。法政大学、丸石自転車という経歴はすっかり一緒。
  彼の記録を抜こうってことになったんですよね。」
 「条件を合わせるために、ルートは照夫と同じものにしたんですよ。」

 
1970~73年の間に東京→大阪タイムトライアルの記録は塗り替えられなかったようで、そこで国体王者がその記録に挑む……という構図だったようです。

目標は22時間。1973年9月5日の午前5時、皇居前から大阪に向けてのトライアルが始まりました。


■挑戦結果


スタートは皇居前、ゴールは大阪市の国道1号線終点。ルートは国道1号線準拠(バイパスは回避)。前述の通り、藤田さんとすっかり同じです。サポートカーも、藤田さんと同じくアリ。港サイクリングクラブのサポートカーに加え、取材としてニューサイクリングの車と、報知新聞社の車が同行したそうです(新聞にも記事が載ったらしい)。

 走行距離: 560.9km
 タイム: 20時間50分
 平均時速: 27.4km/h
 
天気は曇り時々晴れ、気温は18~25℃と、かなり恵まれたコンディション。ただし、静岡区間では向かい風に苦しんだそうです。この辺りは今も昔も一緒ですね(大体、藤枝のあたりから向かい風がキツイ)。

全停止時間は2時間52分。これも恐らく、信号停止時間は含んでいません。走行時の平均時速はゆうに30km/hを超えている計算になります。向かい風の区間もあってコレですからね……。

走行距離は560.9km。藤田さんは544kmとありましたが、恐らく560.9kmの方が正確な距離です。現在の国道1号線でバイパスを回避した場合の距離が555.0km。当時のバイパス回避ルートは分かりませんが、少し迂回すれば5kmくらいは多く走ることになるはずです。

2代目

こちらは詳細なタイムテーブル。現代の「東京大阪キャノンボール」においては、「なるべく休憩時間は短く」というのが定石となっていますが、橋本さんはかなりガッツリ休むタイプだったようです。よくこれだけ休んで20時間50分という記録が出せるものです……。


■ルート&計画


前述のように、今回は橋本さんが道に迷った記述はありません。GoogleMapも無い1970年台にどうやって正確な自転車向けのルートを引いたのか? 作戦を立てた植原さんに質問してみました。

 「もう既に当時からウチ(港サイクリングクラブ)は全国各地を旅していましたから。
  クラブ員の持っている地図を集めれば全国の詳細な地図が手に入ったんですよ。」
 「バイパスについては現場に行かないと分からない。
  でもそれも実際にツーリングで走ったクラブ員が知っていたんです。」

  
なんと、1973年にクラブ員の集合知で正確な「東京→大阪」ルートが出来上がっていたというのです。これには驚きました。この当時で既に創立24年を迎える老舗クラブということだけあり、メンバーの総力を結集すればこれくらいは造作も無いことだったのかもしれません。

走行計画についても事前に作成しており、目標の22時間に対して、実際には21時間30分の予定で行程を作ったとのこと。事前に何度か橋本さんに100km程度の距離を走ってもらい、登り・平坦・下りのペースを掴んだ上で行程を立てたそうです。このアプローチは私が実際に「東京→大阪キャノンボール」に挑戦した時に取った方法とほぼ同じ。40年も前に同じ方法で作戦を立てていた人がいたわけですね。

結果として、計画よりも40分ほど速い20時間50分という記録が生まれたのでした。


■自転車


挑戦に使った自転車についても、植原さんに聞いてみました。

 「フレームはウチのオーダーフレーム。
  車重は9kgくらいで、そんなに軽くはなかったな。」
 「ただ、車輪は軽くした。
  320gの軽量リムに、240gのチューブラータイヤ。
  フレームよりも、車輪の方が影響は大きいからね。」

  
ニューサイクリング掲載のレポートによれば、ホイールは以下の仕様だったとのこと。

  ・リム: スーパーチャンピオン(チャンピオンドゥモンド)
  ・ハブ: Campagnolo Record 36H
  ・タイヤ: Hutchinson Corsa GT(240g)

タイヤを合わせた前後輪重量は2kg前後だったそうです。当時としてはかなり軽いのではないでしょうか。

ギヤは、前が50-46T。後は5段変速で14-21T。箱根は50-18Tで登り切り、鈴鹿は50-16Tで登り切ったそうです。信じられない。


■装備


藤田さんと同じく、パッド無しのレーパン。ライトは夜の間だけ伴走車から渡して取り付けたそうです。ただ、基本的には走者の10~20m後ろから伴走車が追いかけていたようで、車のヘッドライトで視界は良好だったとのこと。


■その他


ニューサイクリングの記事によると、走者の橋本さんの身長は163cm。初の「東京→大阪」24時間切りの達成者である藤田さんも、恐らく160cm代。そして、1982年に橋本さんの記録を破る大塚さんの身長は158cm。いずれも身長は高いとは言えません。

実は、現代の「東京→大阪キャノンボール」では全く逆の傾向で、基本的に24時間切りの達成者の多くは身長170cm以上です。少なくとも私の知る限りでは、165cm以下の人はいません。平地が大半を占める東海道においてはパワーを出しやすい大柄な体格の方が有利であるはずです。しかし、初期の挑戦者たちの多くが決して大柄とは言えなかったというのは中々興味深い事象であると言えましょう。


■まとめ


今回は、伴走車に乗っていた植原さんの立場から、挑戦の裏側を聞くことが出来ました。

私が「東京大阪」の挑戦のコツを聞かれた際には、

  「計画が8割。ルートの下見をして、実績から計画を立てること」
  
と答えることが多いのですが、既に40年も前に同様のアプローチを「参謀」として授けていた人がいた事には驚かされました。

走者の橋本さんは、このチャレンジについて以下の様に述べています。

 「このようなロードタイムトライアルは、一人では絶対に出来ないと思っている。
  監督、メカニシャン、自動車のドライバー、そして走者が一つのチームとして
  まとまった行動をしてこそ初めて、良い結果が得られるのである。」

  
まさに20時間50分という結果は、「港サイクリングクラブ」が一丸となって得た結果であったと言えるでしょう。現代まで続く、「東京大阪」攻略のルーツをここに見ました。

(終)
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テーマ : 自転車(スポーツ用)
ジャンル : スポーツ

史上初めて「東京~大阪」を24時間以内に走った人

本記事では、史上初めて「東京~大阪間を自転車で24時間以内に走破」した方について述べます。言うなれば、初代キャノンボーラー。彼は何故このチャレンジをしようと思ったのか、そしてどんな装備で走ったのか。1969-70年に行われたチャレンジを追いました。


■導入


長い間、ずっと疑問に思っていたことがありました。それは、

 「最初に東京~大阪を24時間以内で走ったのは誰なのか?」
 
ということ。Cannonball Wikiでは1970年に藤田照夫氏が23時間07分で走破したという記録が紹介されているものの、この記録についても詳しいことは分からないままでした。

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そんなある日、以下のツイートがリツイートされてきました。

1970年6月のサイクルスポーツ、キャノボの記事あり pic.twitter.com/t6TqRqdBLU

― わたまる@那須ロングライド (@ERO82) 2016年5月3日


これは恐らく、上記の藤田さんの記事。是非読みたい……しかし、この本が置いてあるのは群馬県のとある茶屋。ちょっとそこまで行くのも難しい。しかし、日本には便利な場所があります。古今東西の自転車本が読める場所があるのです。

それは、目黒の自転車文化センター。会員登録をすることで、蔵書数9000冊の自転車関連書籍を読むことが出来ます。ここならば1970年のサイクルスポーツもあるはず!

書棚には無かったので受付の方に聞いてみると「ありますよ」とのこと。地下からわざわざ持ってきてもらいました。当時のサイスポは今のものよりも小さく、ムック本サイズ。3号分が一冊に纏められた本をめくっていくと、藤田さんの挑戦記事「東京大阪タイムトライアル~24時間の苦闘~」の記事が出てきました。導入2ページ、本文4ページの大特集です。

この日は、記事をコピーさせてもらって帰りました。

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翌日。コピーしてきた記事を読んでいると、ふと気になりました。

 「今、この藤田さんは何をしているんだろう?」
 
1970年当時22歳なら現在68歳。お会いできたら、貴重な話が聞けるかもしれない。そんなことを思い、Facebookを検索。一番上に出てきたのは「藤田照夫」さん。同じ字の方。そして、その勤務先を見て一瞬固まりました。

 「勤務先: レーシングスポーツフジタ」
 
……自分はこの藤田さんを知っている。しかも会ったことがある。つい3週間前に、趣味の老舗サイクルショップ巡りで訪れたばかりの店の店主さんでした。店主さんの年齢は68歳。これはもう間違いない。あのバーテープを売ってくれた店主さんこそ、伝説の初代キャノンボーラーだったのです。

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早速、その日のうちに電話でアポイントを取り付けてお話を聞いてきました。本記事はそこで聞いたお話と、サイクルスポーツ1970年6月号から構成したものです。


■藤田さんのプロフィール


1948年生まれ。中学時代から自転車を始め、高校時代からレースに目覚める。丸石自転車に就職後は実業団(※)に入り、各地のレースを転戦。全日本選手権では13位、1970年の全日本実業団大会では2位という好成績を記録。特にロングが得意というわけではなく、ロードとトラック競技が主戦場。大宮政志氏や、森幸春氏と言った当時のトップ選手と鎬を削っていたそうです。

1969年に「大阪→東京」にチャレンジし、23時間40分で完走。1970年には「東京→大阪」にチャレンジし、23時間07分で完走。1971年には30時間以内を目標に「東京→青森」にチャレンジしたものの、盛岡で膝痛のためDNF。

racing-fujita.jpg
1988年に川越に「レーシングスポーツフジタ」を開業。95年からは「川越~直江津ロングファストラン」を主催。今年で22回目を数える。

※当時は実業団チームを持つ会社で働いていないと走れなかったらしい。


■挑戦動機


サイクルスポーツで取り上げられた挑戦は1970年の「東京→大阪」。しかし、藤田さんはその一年前に「大阪→東京」に挑戦されています。何故、この挑戦をしようと思ったのか、質問してみました。

 「1965年頃に読んだ"サイクリング(※)"って雑誌にレポートが載ってたんですよ。
  でもその挑戦は24時間はオーバーしてて。ならば自分でやってみようと。」

  
しかし、藤田さんは自らハードルを上げ、24時間ではなく20時間を目標にして「大阪→東京」に挑んだそうです。

 「沼津まではかなり頑張って16時間で着いたんです。でもそこで疲れちゃって。
  そのまま行けば20時間は無理でも22時間は切れたはず。
  だから23時間40分は僕にとっては失敗なんですよ。」

  
翌年、今度は逆方向の「大阪→東京」に挑んでみようと思い立った藤田さん。そのキッカケは、大阪で初開催となったニューサイクルショー。どんなイベントだったかは聞き忘れたのですが、当時のサイクルモードみたいなものでしょうか。「大阪→東京」よりも条件の厳しい「東京→大阪」。今度の目標は22時間半に設定し、挑戦に臨むことになりました。

なお、「藤田さん以前に東京~大阪を24時間以内に走った人っていたんですか?」との質問もしましたが、「多分いないと思う。あまり当時はこういう挑戦をする人はいなかったので。」とのお答え。

戦争で焼け落ちた多摩川大橋が再建され、国道1号が全線開通したのが1949年。それから20年の間に記録に残らない挑戦をした人がいた可能性はありますが、当時日本でも最強クラスのロードマンだった藤田さんがサポートカーを付けて23時間ということを考えると、そういった人がいた可能性は低いでしょう。道路状況といったインフラ、自転車や装備等のハード、そして走者が揃ったのが1969年なのでしょう。やはり、史上初めて自転車で24時間以内に東京~大阪間を走ったのは藤田さんと考えて良いようです。

※サイクリング誌→既に廃刊となったニューサイクリング誌の前身


■挑戦結果


1970年4月25日の昼12時から挑戦。スタートは皇居前、ゴールは大阪市の国道1号線終点。ルートは国道1号線準拠。サポートカーありでの挑戦です(当時はサポートカー有が主流だった)。

 走行距離: 544km
 タイム: 23時間07分
 平均時速: 23.5km/h
 
箱根の前後は雨。ここで雨具を着たり、サポートカーに積んだ泥除けを付ける等で結構なタイムロス。ただ、雨が降ったことで風が吹かなかったのは良かったとのことでした。東京→大阪で辛いのは向かい風ですので。

停止時間は2時間36分と書いてあるものの、これは休憩やパンク修理時間のみの合計。信号停止時間も入れると、3時間はゆうに超えていたはず。そうなると、走行時の平均時速は30km/h近かったものと推測されます。
 
なお、サイクルスポーツに載っていた走行距離(544km)は藤田さんいわく「車のメーター距離では」とのこと。当時はサイクルコンピューターは無かったので、正確な値は分からないそうです。ただ、国道1号線を愚直になぞったのであれば、距離は550-560km程度になるはず。多分車は途中で高速道路やバイパスを使っているから短く出ているのでしょう。

syodai_cannon.jpg

こちらは詳細なタイムテーブル。大休憩とパンク修理の時間をこれだけ取って23時間に収めているのは流石です。


■道路状況


当時の道路の様子について聞いてみました。東海道は1970年段階では全面舗装が完了。舗装については今よりも荒かったらしいですが、信号については今よりもかなり少なかったとのことです。ただ、Googlemapなんて当時は無いので、バイパスの回避等が大変だったと仰っていました。宇津ノ谷峠の平成トンネルは開通前で、旧トンネルを抜けたそうです。国道15号も品川から先は自転車通行禁止だったらしく、国道1号を辿ったとのことでした。

また、1960年代の前半には、宇都宮~仙台の四号線はダートだったとのこと。70年代には舗装が完了し、東京→青森のチャレンジを行ったときは問題なく走れたとのことでした。


■自転車


当時の最高峰のビルダーである梶原利夫氏の作成した超軽量クロモリフレームで挑戦。なんと、完成車重量は6.8kg。カーボンも無い時代にこの重量は驚きですね。ただ、軽量に作りすぎたためか耐久性は低く、数年でフォークがダメになってしまったと仰っていました。

ギヤは、前が50-46T、後が(恐らく)5段変速で、最大が24T。フロントについては、現在のように「登りはインナー」というよりは、ギヤ比が微妙な所でフロントギヤを変える使い方をしていたそうです。基本的には全てアウター。箱根の登りもアウターだったそうです。

タイヤはトラック競技用のチューブラータイヤ。180gと超軽量ながら、耐パンク性は無に等しく、「東京→大阪」間で2回パンクしたそうです。

ビンディングペダルは存在しない時代なので、トゥークリップ固定。信号のたびに手で外さねばならず、大変だったとのこと。

バーテープはコットン。サドルはブルックスの皮。振動吸収性は今のものに比べると相当悪かったようです。「今のサドルはどれも楽だよね」と仰っていました。


■装備


装備面が一番今と違うのではないでしょうか。

一番驚いたのは、「当時のレーパンにはパッドが無かった」ということ。皮サドルにパッドなしレーパンで24時間走り続けるのは予想以上に辛かったはず。実際、「トイレに行くたびに尿道の痛みが辛かった」と仰ってました。この挑戦の後しばらくして、付き合いのあった清水氏(現・パールイズミ社長)から新製品のテストとしてパッド付レーパンを渡されたそうです。

ライトの運用も大変だったようです。当時のライトは持って1-2時間。コンビニで電池も買えない時代の話です。サポートカーから何度も供給を受けてライトを交換したとのことでした。

 「ライトが切れて警察に呼び止められたらタイムロスになるし、第一危ない。
  電池が持たないから切らさないようにするのが大変だった。
  今のライトは一晩持つから良いよね。」

  
と仰っていました。ライトはここ数年で凄まじく進化しましたからね。当時の厳しさが垣間見えた話でした。


■交通安全


トゥークリップ、ライトのエピソードからも分かるように、藤田さんは「交通法規を守ってのタイムトライアル」を徹底していたそうです。ズルをした記録には意味がないと考えておられ、「車の後ろに着いてもいないよ!」と笑顔で仰っていました。これには深く同意します。

恐らく当時は今よりも交通法規に関してはルーズであったと思われますが、そんな時でも自分で立てた条件を曲げずに挑戦していたのは素晴らしいですね。

藤田さんは280㎞を走るイベント「川越~直江津ロングファストラン」を主催している方でもありますが、その考え方は安全第一。長時間の夜間走行は自身の経験からリスクが高いと考えておられ、朝出発して明るいうちにゴール出来る設定にしているそうです。開催日がゴールデンウィークの中日なのも、「長距離の大型トラックが少ないから」と仰っていました。


■その他


今回、印象的だったのは藤田さんが1971年に挑戦した「東京→青森」のエピソード。9月なので薄着で臨んだものの、夜の東北地方の予想外の冷え込みにより膝を痛めて550㎞地点でDNF。

 「あ、実は私も10月に逆方向の青森→東京をやったんですが、
  同じように残り200㎞で膝を痛めまして……。
  その時の気温は8度でした。」
 「40年経っても同じミスしてる人がいるんだね!」

 
と大笑い。歴史は繰り返すのかもしれません。


■まとめ


現時点で分かっている中で最古の「一日で東京大阪を走る」エピソードを本人から聞くことが出来たのは、非常に刺激的な体験でした。まさか、全然違う目的で行った自転車屋の店主さんがその人だったとは思いませんでしたが……。

話を聞くにつれ、今と昔の違いには驚かされました。LEDライトも無い、パッド入りレーパンも無い、ビンディングも無い、コンビニも無い、ルートも良く分からない。そんな条件であっても全力で挑戦したエピソードは聞いているだけで胸が熱くなりました。

最後に藤田さんが仰っていたのは、

 「記録は自分の中に持っていればいいんですよ。」
 
と言うことでした。時代によって道路状況は変わるし、装備も変わるし、人の考え方も変わる。でも自分がやった事実は変わらない。人の記録と比べるよりも、自分がやったことを大事にしなさい、と言うことなのだと思います。かつて一流の選手であり、ロングライダーであり、今でもイベントの主催を通して楽しさを発信し続けている偉大な先人の言葉は重みがあるものでした。

(終)
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檜交差点回避ルート (吉原駅周辺)

檜交差点をアンダーパスで回避するルートです。大阪→東京の方向でしか使えません。

檜交差点は、基本的にK380方向が常に青で、押しボタンを押すか、車が来ないと信号が変わりません。
押しボタンを押しても1~2分は待たされます(特に夜中は長い)。そこで、アンダーパスを使って信号を回避します。





■メリット
・信号待ちをしなくて済む。(特にここの信号は長い)

■デメリット
・アンダーパスの入り口が若干分かりづらい。

【ポイント】檜交差点の50m前
檜交差点の50mほど手前に、芝生に挟まれた狭い道があります。左折してここに入ります。




【ポイント】アンダーパス
そのまま進むとアンダーパスがありますので、これでK380の下をくぐり抜けます。
くぐり抜けたらすぐに右折すると、K380に復帰できます。




アンダーパスは人道ですので、歩行者や他の自転車にくれぐれも注意してください。


(檜交差点回避ルート・完)
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BRM919宮城1000 ⑥PC5:久慈~PC6:五戸

9/20 20:58、PC5:サンクス久慈野田店(462km地点)に到着。「久慈に九時前に着く」という下らないネタのためにちょっと頑張ったが、何とか2分前に滑り込むことが出来た。

長い長い三陸海岸ステージがこれでようやく終わった。PBPを意識したと言われるこの区間はたった70kmほどとは言え、かなり走り応えのあるものだった。この区間でトラブルなどがあった場合はリタイヤするのも大変(交通手段が無い)ので、ここまで無事に来れたことで、ようやく第一段階クリアといったところだろうか。

事前の調査によると、久慈には健康ランドがあるという。夕方に一時間半寝たとはいえ、ここで大休憩を取らないとこの先も走り続けるのは辛いはず。事前の予定通り、健康ランドで寝ていくことにした。


久慈のPCを出て10kmほどで、「古墳の湯」という案内看板が出ていた。ここを右折すると、間もなく登りが始まる。斜度は10%前後と、完全に「寝たい」モードに入っている体には堪える斜度だ。登れど登れど明かりは見えず、本当にこの道で合っているのか不安になる。


KIMG2823.jpg

登り始めて5分ほど経った頃、ようやく健康ランドが見えてきた。駐車場に入ると、建物前には既に何台かのロードバイクが並んでいる。どうやら先客のようだ。施錠をして中に入り、券売機でチケットを購入。風呂の利用料は500円と安いが、仮眠室の利用は1500円掛かるとのこと。

仮眠をしたい旨を受付に伝えたのだが……

  「すいません、仮眠室は既に一杯です。お風呂のみの利用なら受け付けます。」
  
シルバーウィークに加え、嵐のコンサート効果がここまで波及しているのか? 山奥の健康ランドの仮眠室が一杯になっているなんて全く想定外であった。かといって、ここまで来て風呂にも入らずに引き下がることは出来ない。とりあえず風呂には入る。いったん暖かい風呂で筋肉をほぐし、水風呂に浸かって炎症を鎮めるいつものパターンで入浴する。


風呂から出てみると、食堂の床で寝ている人が居た。なるほど、この手があったか!と思って寝転んだが、受付の人がまもなくこちらにやってきた。

  「ここで寝るなら1500円払ってください。」
  
食堂のゴロ寝で正規の仮眠室と同じ料金を取るのかぁ……と思ったが、逆に考えれば「1500円払えば大手を振って寝られる」ということ。これから宿泊場所探しに奔走することを思えば、そのくらいは安いものだ。素直に1500円を支払い、食堂で4時間ほど仮眠した。

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日付は変って9/21 2:30にリスタート。気温はすっかり下がり、10℃となっていた。レインウェアを羽織って出発する。

先ほど登ってきた坂を下って、正規ルートに復帰。下りで冷えた体を温めるため、強度を上げて走っていく。ここからは三陸海岸を離れて、内陸の十和田湖方面を目指す。海よりも内陸の方が当然寒いわけで、気温はどんどんと下がっていった。

9月だというのに、吐く息が白い。気温表示を見ると6℃まで下がっているではないか。「PBP(最低8度)より下がることは無いだろう」と思い、PBP準拠の装備で来たのだが、もう一段階防寒装備が必要だったようだ。念のため持ってきたネックウォーマーを付けることで何とか体感気温を上げて対応した。


赤石峠のダウンヒルを寒さに震えながら下り終えると、そこにはローソンが!極力PC以外のコンビニには寄らない方針だったが、たまらず吸い込まれる。こんなときに食べるものといえばアレしかない。カップヌードル。美味い、本当に美味い。軒先で食べていたら、匂いに釣られたのか後続の参加者たちも次々と吸い込まれてきた。カレー味のカップヌードルの吸引力、恐るべし。


KIMG2824.jpg

なんとかカップヌードルで体温を回復させて先を急ぐ。徐々に夜は明けてきたが、気温の上昇と共に霧が出てきた。寒さ→霧のコンボはPBPの明け方を思い出させるには十分な演出だった。一時は10m先が見えなくなるほどでかなり慎重に運転することを強いられた。

(つづく)
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BRM919宮城1000 ⑤PC4:釜石~PC5:久慈

9/20 12:08、ローソン釜石駅前店(322km地点)に到着。ここで再びNAOさんに追いついた。とっくに先に行っていると思ったが、彼もどこかで寝ていたのだろうか。

ここから先は三陸海岸のステージに入る。アップダウンの続く難ステージ「国道45号」。補給箇所が少ないと聞いていたので、パスタを食べてがっつり補給。お菓子も大量に買い、フロントバッグに詰め込んだ。

PCを出ると間もなく、釜石市役所の前を通り抜ける。ここでギョっとしたのが、市役所庁舎に貼り付けられた看板であった。

  「ここまで浸水」
  
と書かれたその高さは、2階の高さに届こうかというほど。海から近い市役所とは言え、この高さまで来たのかと恐ろしくなった。その先も、「ここから津波浸水区間」「ここまで津波浸水区間」と言う案内標識が道路に立っているのを何度も見た。つい最近設置されたもののようで、まだ新しい。三陸海岸はその地形上、津波を避けることは出来ない。少しでも次回の被害を小さくするための施策ということだろう。


KIMG2820.jpg

特徴的なのは、一定距離ごとに立っている標識に「前方**m」「後方**m」と書かれていること。最初は何のために距離を書いているのかと思ったが、少し考えて理由がわかった。つまり、「津波警報が出たら、より距離の短い方向へ逃げろ」ということなのだ。リアス式海岸では湾の形によって、浸水する標高も変わってくる。単純に標高が高い場所に逃げただけではアウトになることもある。より助かる可能性が高い方向を示す方法として非常に解りやすい方法だと思った。

  参考: 過去の浸水区域一目で 岩手の国道に標識設置
  http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27035_X20C12A8CR8000/

  
KIMG2815.jpg

1kmほどの長さのある両石トンネルを抜けると、眺望が開けた。リアス式海岸をこの目で見るのは初めて。湾の形がハッキリ見えるほどに小さく、確かにここに津波が来たら恐ろしく高いものとなるであろうことが想像出来た。


KIMG2814.jpg

大槌湾では、テレビのニュースで何度か見た仮設店舗のファミリーマートを見かけた。地震から一年で設置された店舗らしいが、未だに仮設のままであった。


KIMG2817.jpg

道の駅やまだ。ここで一旦トイレ休憩。名物「わかめソフトクリーム」を食べたかったが、混んでいたので諦める。


KIMG2818.jpg

道の駅を出て走り出すと、空がにわかに暗くなり、ポツポツと雨が降ってきた。予報では全く降らない筈だが……と思い、停車して雨雲レーダーを見てみるが、特に雨雲がある様子も無い。そうこうしているうちに、降りは強くなっていく。木陰に雨宿りしていたが、ついに防ぎきれなくなって雨粒が体に降り注いできた。仕方なく、サドルバッグを開けて雨具を取り出す。シューズカバー、レインパンツ、レインジャケットとフル装備。グローブが濡れるのはいやだったので、防水のサドルバッグにしまい、素手で走ることにした。

丘の頂上を越え、ウェットのダウンヒル。今回選んだパナレーサーのグラベルキング26Cはこんな路面でも全く不安は無かった。丘を下りきると雨は弱まり、やがて路面もドライに。完全にゲリラ豪雨だったようだ。この先の空も明るく、雨具は必要なさそう。どこか脱ぐ場所は……


KIMG2819.jpg

そう思ったところに出現したコインランドリー。なんてタイミングが良いのか。雨具を乾燥機に入れ、200円を投入。20分も乾かせば十分だろうと思い、その隙に目を閉じる。が、残念ながら意識は飛ばずに20分が経ってしまった。若干あった眠気を飛ばしたかったが……仕方ない。雨具をサドルバッグにパッキングしなおして再出発。


津波被害の大きかった宮古の街を抜ける。道路の通り方が地図データと違っているようで、地図上は何も無い場所を走っているように表示される。復興は現在進行形で行われているようだ。

宮古の市街地を抜けて登りに入ったところで、不意に睡魔が襲ってきた。仮眠で合計2時間程度は寝ているとはいえ、やはり疲れてきている。先ほどのコインランドリーでも寝られなかったのが痛かった。どこか寝るところは無いだろうか……確か、この先には「道の駅たろう」があるはずだが、事前調査では17時以降は閉鎖されるはず。野外にベンチでもあればそこで寝ようと思い、先に進む。


KIMG2821.jpg

道の駅たろうに到着。今回のルート上では、「道の駅やまだ」の次にあるのが「道の駅たろう」……若干の作為を感じないでもない。なお、字は「太郎」ではなく「田老」である。

案の定、道の駅の建物は17時で終わりのようで、既に閉店の準備中という雰囲気。

  (仕方ない、トイレだけ済ませて先に進もうか……)
  
そう思ったところで、道の駅の建物から少し離れた場所にポツンと立つ建物が目に入る。建物の壁には、「たろう津波防災・道路情報」と書かれていた。道の駅によくある情報センターだろうか? 事前の調査では、特にそういうものがあるとは書いていなかったけれど……。建物の中に入ると、テレビが付いていて相撲中継が放送されていた。その隣には国道45号線の道路状況を示す案内板が設置されている。


KIMG2822.jpg

そして、入口左手に目をやって驚いた。畳だ、畳がある!! 睡魔に絶賛襲われ中の身には、そこが天国に見えた。ランドヌールたちの間では、屋根つきのバス停を「帝国ホテル」と呼ぶことがあるが、屋根つき畳みありのこの場所は「スイートルーム」とでも形容すべきだろうか。

早速、寝ようかと思ったが一瞬躊躇する。隣の道の駅本体の営業時間が17時までだとすると、ここも一体いつ閉まるか解らない。現在時刻は16時半。早ければあと30分ほどで閉まってしまうかも知れない。が、今は何を差し置いても寝たい。閉まるならその時に起こされるだろうし、それまで寝られるだけ寝よう。耳栓をし、ネックウォーマーをアイマスク代わりに装着。30分後にタイマーを設定して眠りに落ちた。

-----

体をゆすられて目を覚ます。

  (ああ、やはり閉館時間か。仕方ない、起きよう。)
  
係の人が起こしに来たと思い、耳栓とアイマスクを外す。私は度入りのアイウェアを使っており、裸眼ではほとんど何も見えない。アイウェアを装着して、起こした人の顔を見ると、随分と若々しい。あれ、係の人では無いのか……?

  「すいません、パンク修理用パッチ持ってませんか?!」
  
一瞬、理解が出来ずに固まる。パッチ? 彼もブルベ参加者なのか? それにしては反射ベストも着ていないし、そもそも格好がブルベをやる格好ではない。落ち着いて話を聞いてみると、彼は大学生で、八戸から仙台を目指してツーリング中らしい。パンクが連発し、手持ちのチューブも尽きてしまい、絶体絶命。何とかこの道の駅に辿り着いたところで私の自転車を見てこの建物に入ってきたとのことだった。

ふと、携帯に目をやると、アラームが鳴り続けている。時間を見ると、1時間半が経過していた。30分だけ寝るつもりが、畳の気持ちよさに負けて起きられなかったようだ。まだまだタイムアウトまでは余裕があるが、このまま寝過ごしていたらと思うと、起こしてくれた彼には感謝しなければならない。アラームを止めて彼に答える。

  「ああ、パッチならありますよ。残念ながら修理してあげる時間は無いけど……」
  
建物の外に出て、ダウンチューブ下のツール缶を取り出す。確か底のほうにパンク修理用のパッチがあったはず。ツール缶をひっくり返すと、一番下からTOPEAKのパッチが出てきた。6枚つづりのうち2枚を切り取り、彼に差し出す。

  「はい、これがパッチ。一応、失敗した時のために予備も付けておきました。」
  「ありがとうございます! お代はおいくらですか?」
  「いやいや、起こしてくれた御礼です。持ってってください。」


もっと短い距離のツーリングであれば、チューブを上げても良かったが、今は1000kmブルベの途中。いつ予備のチューブが必要になるか解らない。パッチで何とかなってくれたことを願う。


1時間も余計に寝てしまったので、ゆっくりはしていられない。急いで準備をして道の駅を出発する。さすがに長く寝ただけあって完全に睡魔は飛んでおり、スピードも戻ってきた。前を走っている参加者たちを次々にパスし、先を急ぐ。他の参加者のレポートを見ると、この区間は斜度もキツく苦しめられた人が多かったようだが、全く苦しんだ記憶が無い。完全復活で一路、次のPCである久慈を目指す。

19時過ぎに、道の駅たのはた前を通過。所々にテールライトが見える。ここで仮眠している人も多いのだろう。ここから更に標高を上げていく。トンネル脇の道に入ってしばらく登ると、ヘッドランプに照らされた青看板に「閉伊坂峠」の文字。どうやらここが国道45号線の最高地点のようだ。ようやくこれで久慈までダウンヒル……かと思ったが、eTrex30の標高データをみると、この先もしばらくアップダウンは続くようだ。


ダウンヒルに突入。明らかに寒い。気温表示は12度となっているが、ダウンヒルの場合は体感気温が下がる。下っている途中に停まるのは勿体無い気がしたが、路肩に止まってレインウェアを着用。再度ダウンヒルに突入したが、このダウンヒルが思った以上に長い。やはり一枚羽織っておいて正解だったようだ。

下りきると、そこは海。気温も15度付近まで上がっている。やはり海沿いは暖かい。


少し離れたところに明るい場所が見える。あそこがおそらく、次のPC・久慈だ。時計を見ると20:50。これは頑張れば一ネタ出来そうだと思い、少し先を急いだ。

(つづく)
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BRM919宮城1000 ④PC3:花巻~PC4:釜石

9/20 7:37、PC3:サンクス 花巻桜町店(234km地点)に到着。睡眠欲が満たされたらお腹が空いた。ガッツリと朝からカレーを食べる。天気はすこぶる良い。朝日に照らされながら食べる朝ごはんは美味しかった。

長めに休憩を取って出発。ここからは進路を東に変え、三陸海岸を目指す。今回通った国道283号は山間を抜けていく道で、どことなくPBPのルディアック~ブレストあたりを思い出す風景。左手に釜石線を見ながら、好天の下を走っていく。

しかし、気温が上がってくると眠気も襲ってくる。確かこのルートには道の駅が多くあったはず。そこまで辿り着けば寝ることも可能だろうと思い、先へ。


しばらく進むと「めがね橋」が見えてきた。釜石線が通る橋梁である。碓氷峠のものよりも小さく見えるが、綺麗な橋だ。そして、この橋の隣にあるのが「道の駅 みやもり」だった。

まずはトイレに行ったが、ここのトイレはウォシュレット完備で、かなり綺麗だった。最近立て直されたのかもしれない。続いて休憩所に行くと、既にビアンキ乗りの先客が居た。ベンチに横になっている。それに倣って自分も体を横たえた。ここで15分ほど仮眠。

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目を覚ました後は、名物の「わさびソフト」を食べようと思ったが、まだ開店前のようでありつけず。残念。若干釈然としないまま再出発した。


CPTrESHUYAEs4kA.jpg

淡々と走っていくと、徐々に風景は街中のものへと変わっていく。河童で有名な遠野の街だ。ちょうど祭りの期間中らしく、道の脇の各店舗の駐車場では獅子舞が行われていた。中心となるのは子供たちのようで、「少子化といわれる現在でも、これだけの子供がいるんだな」と、妙なところで感心してしまった。


KIMG2811.jpg

獅子舞のデザインが珍しかったので写真を取っていると、周りの子供たちに「頑張ってください!」と笑顔で言われる。日本でもこんなことがあるんだな。PBPでの沿道の応援を思い出して、少し嬉しくなった。


遠野の町が終わると、仙人峠への登りが始まる。峠と言っても、実際はトンネルがあるだけ。旧道の峠には行かず、標高560mの仙人トンネルを抜けることになる。

峠道の斜度は大したことがなかったが、季節柄か栗が多く落ちていた。もちろんトゲ付き。これでパンクすることは無いと思うが、踏みつけないように慎重に進む必要があった。


KIMG2813.jpg

9/20 11:20、仙人トンネルに到着。入口に入った直後から出口の光が見えている。あまり長くないトンネルなのかな、と思ったのだが……

  長い。いつまで続くんだ、このトンネル。
  
出口の光が見えたのは、近いからではなく、このトンネルが真っ直ぐだったからだった。出口は見えるのに、全然辿り着くことができない。いつまでも続くような錯覚に陥る。公式な長さは2.5kmであり、笹子トンネルよりは短いはずなのだが、5km以上あったように感じた。

そして、トンネル内の水溜りが多い。雨が降ったわけでもないのに、路面はかなりウェット。念のため付けて来た泥除けがトンネルで役に立つとは思わなかった。


トンネルを出ると、今度は急斜度の下りがスタート。釜石まで一気に転げ落ちていく感じだ。若干の膝の痛みを感じつつ、釜石駅前のPCに辿り着いた。

(つづく)
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ばる

Author:ばる
群馬産のキャノンボーラー。
普段はラーメンかカレーを食べに行くグルメライドばっかりやってます。

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【長距離自転車TT記録】
大阪→東京:23時間02分
東京→大阪:23時間18分
東京⇔大阪:67時間38分
青森→東京:36時間05分

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2005年に書かれた東京~大阪の自転車向けルートガイド。情報は古くなっているものの、今でも十分使えます。


拙著の「東京→大阪キャノンボール」レポート掲載。タイムテーブルや、戦略等を詳しく書いています。


シクロツーリストの田村編集長による長距離走行ガイド本。時短法やキャノンボール挑戦時のエピソードが掲載されています。

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